【本の要約・気づき】『善の研究』西田幾多郎

読書感想

私たちは世界を色眼鏡をつけて視ている

私たちは目の前のもの

日常生活で経験することを

色眼鏡を通して見ています。



色眼鏡を通して

物事を視ているために

経験そのものや、

判断を

ゆがめていることだって

あります。



西田は、

この色眼鏡を外して

「じかにものを見るために」

「純粋経験」と「実在」という

概念を持ち出しました。




色眼鏡を外す

「純粋経験」とは

西田は、

主観と客観を

取り除いたもの。



主観と、客観が

立ち上がる前の意識を

「純粋経験」

と、定義しました。



例えば

私が登山に行き、

山頂で息を呑むような

美しい絶景を見たとします。

私が見た絶景

思わず息を呑むような絶景

自分という人間が

ちっぽけに思える

自然の雄大さ

美しい雲

生命力に溢れる緑

きらきら光る川

せせらぎや

木々が揺れる音、

鳥の声――



――

私が絶景を見て

言葉を失った瞬間、

目を奪われた瞬間こそが

「純粋経験」です。



それを

私の経験則や、

私の見えている範囲で

判断したり、

言語化したり

することで、

「純粋経験」したことが

どんどんと切り取られてしまいます。



私の主観と同じく

言語もまた、

世界を小さくする

ものであり、

私が操る日常的な言葉も

世界を小さく

切り分けてしまいます。



良いか悪いは別として、

言葉は世界を

枠に、型に

押し込んでしまう

ものです。




「実在」とは

西田は、



「純粋経験」を通してのみ

得られる経験。



現実そのまま。



世界を有らしめる働き。



を「実在」と定義しました。



ここにリンゴがあります。

リンゴは赤い色をしていますが

リンゴが私の目に飛び込んだ瞬間

それがリンゴたらしめる働きが

目に入ってきたのであって、

「色は赤である」というのは、

あらかじめ定義された色の枠に

押し込み、リンゴを客観化しています。



リンゴがリンゴである働き、

あらゆる情報

そのまま、まるごとを

受け止めて得られる経験のみを

西田は「実在」としました。




「直にものを見る」を妨げるもの

なんのフィルターも通さず

「直にものを見る」

それが「純粋経験」であり

それを通して得られる経験が

「実在」です。

何のフィルターも通さず、「直にものを見る」イメージ

この「直にものを見る」を

妨げるものがあります。

思想は、

ある角度はよく見せてくれますが、

全てを見せてくれるわけではありません。



習慣は、

日常的な習慣で慣れてしまい、

どうせ同じことだろうと

片付けてしまうことです。



数年前に読んだ本、

そのときはなにも感じなかったのに

今、読んだとき、とても心に

突き刺さることだってあります。



嗜好は、

好き嫌いのこと。

嫌いな人が好きといったものを

正しくみられないことって

ありますよね。



西田は、

このようなフィルターを

取り外し

「裸の眼で見ること」

が大切だと説きました。



私たちは日常に慣れて、

飽き飽きしてしまい、

遠くへ出かけたくなることがあります。

それはリフレッシュには

とても素晴らしいことです。



一方でそれは、

日常の価値を低い所に置き、

非日常の方が価値が高いと

思い込んでしまっている

危うさも潜んでいます。


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