【本の要約・気づき】『善の研究』西田幾多郎 ――なぜ、自己啓発本は胡散臭いのか。

読書感想

私の「自己啓発」理解

私は「自己啓発」を

次のように解釈して

いました。



「自己」とは、自分のこと。

「啓発」とは、気づくこと。

「自己啓発」とは、

自分に気づくことである。



つまり、本にたとえれば、

あらゆる本は広義の意味で

「自己啓発本」だと言えます。



これはよく、「自己啓発本」が

からかわれる、

いかがわしいものだと

解釈されるたびに、

その反論として

持ち出していたものです。



しかし、

西田幾多郎の

哲学は、

さらに、もっと

奥深い所にありました。

西田幾多郎の「自己実現」とは

一般的な「自己実現」

一般的に、

「自己実現」とは、

「自己」とは「自分」のことで、

自分が目標を決めて、前に進んで

達成することだと解釈されます。

西田幾多郎の「自己実現」

西田の哲学では、

「自己実現」とは、

「自己」の根底にあるものが

開花すること。

と解釈されます。



ここでの「自己」は「自分」

ではありません。



人は自分らしさを求めるとき、

自分はどこにあるんだ!

自分にはなにが出来るんだ!と

躍起になったり、


そのせいで、思考がいびつになり、

自分だけが得をしようとしたり、

自分が上達する、成長することを

目指そうとします。



最近の、浅い自己啓発本にも

よくみられます。

(最速、最短、効率で

ノウハウを伝授する系の)



「自分」のことしか

考えてないとき、

目先のことしか考えず、

小手先のテクニックで

得をしようという

思考が働き、醜くなります。



また、そのように洗脳しようと

胡散臭い思想が持ち出されます。



自分のことしか考えていない「自分」だからです。



西田の哲学では、

「自己」とは、

人と他者との

切っても切れない

関係性にあるものです。



他者との関係性を意識して、

行為することこそ

「善」であり、

真の「自己実現」であると

説きます。



たとえば、ニュースでいたましい

事件や、災害の様子をみたとき、

まったくの赤の他人であっても

心を痛め、自分に出来ることがないかと

行為することがあります。



家族や、友達が悲しんでいたら

寄り添おうという心の働きが

人の心の奥底に流れています。



これを西田は「善」と定義しました。



そうじゃない人もいるかもしれません。



そうじゃない人は、

「自分」の表層の部分で

感情的になっていて、

「自分が!」「自分が!」

状態になっているのでしょう。



人は、自分の心の奥底の

呼び声に耳を澄ませば

大いなる他者、

人類、

宇宙、

とさえつながれる。



人はその可能性の種(善)を

持っていると、西田は説きました。



次回は、内容を深堀りしていきます。

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