前回は、
人々のあらゆる選択(趣味、人生)を俯瞰してみると、
一定の傾向性があり、それを「ハビトゥス」と呼ぶ、
というところまでまとめました。
趣味とは闘争である!
ブルデュー曰く、
人の「趣味」、「何かが好き」というのは、
「必ず同時にひとつの生きかたを相手に押しつけようとするものである」
と言います。
なぜ、 趣味とは闘争といえるのか。
なぜ、 趣味とは闘争といえるのでしょうか?
それは、
人間が行為するとき、そこに真剣な関わり合いや、利害関係・動機があるからです。
具体例 ①
例えば、
「ヘヴィメタル」が好きという人の心の中を覗いてみると、
他のジャンル、たとえば「Jポップ」にはないものがあるからです。
「ヘヴィメタル」が好きであるといえるのは、
「ヘヴィメタル」が音楽界の中でどの立ち位置にあって、
他にどのようなジャンルがあるなど、音楽界の知識に詳しくなるという
「好き」に対する真剣な関わり合いがあるからなのです。
何かを「好き」という気持ちはそれだけでは済みません。
「その中でも自分はヘヴィメタルが好きなんだ!」という
自分を賭けて「好き」なのです。
そうでなければ「好き」なことに真剣に関わり合いません。
具体例 ②
もう一例挙げてみます、
私は「読書」が好きです。
だれかに「どんな本が好きなのですか?」と尋ねられたら、
「「実用書」「自己啓発本」または、「純文学」などが好きです。
私が「純文学」が好きなのは、自分で面白さをひも解いていく難解さに
面白さがあり、その姿にカッコ良さを感じるからです。」と答えます。
今、私は、「読書界」の中でのポジショニングを語ったのです。
私は、Twitterで読書アカウントを持っているのですが、
ときどき「自己啓発本」を小ばかにしてくる人たちがいます。
「宗教」「洗脳」「デタラメ」「あんなの読んでも意味がない」
などなど・・・。
「何かが好き」というのはそれ単体では成り立たず、
他との関係性によって成り立っており、
自分がそれを好きであるからには、そこに自分を賭けた「闘争」があるのです。
全ては関係性によって成り立っているのなら感謝すべきだ。
ブルデューは、
「趣味」とは、それ1つでは成り立たない。他との関係性によって成り立つのである。
そういった相対的な関係性によって成り立つ社会空間を「界」と名付けました。
真剣に関わっているからこそ「好き」であるし、
自分を賭けているからこそ「界」の中や、
他の「界」との間で「闘争」が起こるのです。
見方を変えれば、
趣味が他との関係性によって成り立っていることを知ったとき、
自分は他との関係性によって成り立っているんだという
仏教の「縁起」と通じるものがあります。
そこに執着をなくせば「界」の間での「闘争」はなくなり、
自分の「界」を否定する人に対して、
むしろ「感謝」することができます。
また、あらためて自分はどの界の、どのポジションに属しているか、
そしてその点と点を結んだとき、
どんな星座が描かれるのかを整理してみたいと思います。
なぜならその星座こそが「自分」だからです。

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