スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム を 西洋と日本の昔話の比較から読み解く。(感想・考察)

映画感想

ネタバレありです。

西洋と日本の昔話の比較

西洋の昔話は、

「拡大しよう」「獲得しよう」とする物語が多いです。

例えば、奪われた土地を取り戻す。敵を倒してお姫様と結婚する。領地を拡げる。など。

日本の昔話は、

うらしま太郎、つる女房、かぐや姫のように結婚しません。

うらしま太郎では、最後に、玉手箱を開けると主人公がおじいさんになってしまいます。
これにより、時間軸が合わさり物語が「循環」します。

「循環」とは全てを包みこむ「豊かさ」です。

「豊かさ」とは、最初のシーンから、それまでにあったさまざまな出来事を、
反対する者も、敵対する者も、矛盾するものも、
誰も排除せずに、そのままに置いておける、ということです。

昨今の国と国の交渉事や、政治的な戦い、
ネット上のマウント取り合戦、論破、などは
異論は受け付けない! 「排他」「排除」 が常ではないでしょうか。

しかし、

本作はこの世の中に対して、高次の答えを示してくれている気がします。

賛否あるラストシーンの「決断」について

この世界のスパイダーマンは最後に大きな決断をします。

ネガティブな意見として、

・自己犠牲的ではないか

・原作リスペクトの為にシナリオ上で嫌な役目を買わされた

恋人MJ、親友ネッドの関係もリセットされる。
ハッピーも、Dr.ストレンジでさえも誰もピーターのことを覚えていません。

ピーターは誰もいない、空になった自宅に戻ると、
警察無線を傍受し、手製のスーツで街の治安を守りに空を駆け出します。

・今までのことはなんだったのか

・すべてはなかったことになったようなものだ

わたしも、空になった部屋に戻ったピーターを観たときは
胸が痛みました。

しかし、

ここで、本作の逆の結末を考えてみます。

本作の逆の結末を考えてみる

もし、

Dr.ストレンジに従い、敵を元の世界に戻していたら、
もしくは、この世界で敵を倒していたらどうでしょうか。

異論、異物は排除! クサイモノにはフタ! という排他的な映画になってしまいます。

もし、

記憶を消されたあとに、ピーターがMJとネッドに必死になって声をかけて
2人の記憶がよみがえったとしたらどうでしょうか。

とっても安っぽい、ご都合主義的な映画になってしまいます。

「出会う」けど「戻る」「豊かさ」とはどういうことか

ラストシーンでピーターは大人の表情を見せます。

複雑な葛藤がピーターの胸の中で交錯しているでしょう。

ピーターは大人に成りました。

子どもはいつか親元を離れ、社会へ船出を果たし、一人立ちせねばなりません。

いつまでも親のスネをかじったり、子どものままでいたり、

周りの助けを借りていたら一人立ちはできないのです。

出会うけど戻る、という「循環」には、

嫌なことも、良いことも、排除しない、全てを包みこむという「豊かさ」があるのです。

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スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム 吹き替え版のテーマソング 
SixTONESの2ndアルバム『CITY』収録の「Rosy」

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