他人を理解するということは、他人のいきさつを理解することである
わたしたちは脚色された情報が伝達される世の中で、
自分自身や他人対して、しなくてもいい責め方をしているかもしれません。
たとえば、報道番組で「ゴミ屋敷問題」が取り沙汰されます。
番組ではおぞましいほど積みあがったゴミの山、
迷惑する近隣住民、マイクを向けると逆切れして追い返す家主。
しかし、よくよく話を聞いてみると、
家主にはこれまで生きて来た歴史といきさつがあります。
その部分に耳を傾けると自分自身と交わる部分がみつかることがあります。
人にはその人たらしめる合理的な理由がある。
ゴミ屋敷の家主はフッと異世界話からワープしてこの地球上に出現したのではありません。
その人の歴史、いきさつ、いとなみがあります。
ブルデューは他者を理解することを、「他者のハビトゥス(傾向性)を理解することだ」
といいました。
映画『ファーストラブ』は、父親殺しの女子大生と弁護士の物語です。
彼女は嘘ばかりつき、彼女の担当弁護士含め周囲はお手上げ状態になります。
それでも公認心理師だけは彼女の心に寄り添おうとします。
すると徐々に真実が見えたり、心を通わせたりするようになります。
何度も真剣に関わるうちに、彼女のこれまでの生い立ちも見えるようになり、
そして公認心理師も、「彼女は自分だ」と思えるような共通点を見出すようになります。
(その部分をていねいに描いた見事な映画です。)
「レッテル貼り」したらそこで話が終わり、理解しあうことができない
職場の嫌いな人間、うつびょう、ひきこもり、LGBTQ、親、不良、暴走族
あいつは怒りっぽい、あいつはヒステリック、あいつは、あいつは、、、
と人は「レッテル貼り」をしがちです。
好きでそうなっているわけではないのに。
レッテル貼り=思考停止です。
レッテル貼りしたらそこで話が終わってしまいます。
私が今の私にいたるまでには「私」たらしめる合理的な理由があります。
あなたが今のあなたにいたるまでには「あなた」たらしめる合理的な理由があります。
お互いの歴史、いきさつ、これまでの営みを語り合うことで
共通項を見出し、完全に理解できなくとも、お互い心を通わせる入り口に立つことは
できるかもしれません。
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